一人ぽっち

 それからしばらくして僕は退院し、足にギプスを巻いて
 学校に出るようになった。
 僕をいたわる人間にも、僕を嘲笑う人間にも、
 僕は同じ表情で接した。屈託の無い無邪気な笑顔で。
 
 数ヶ月後にギプスは取れても、使っていない筋肉の為に
 歩く事さえ困難だった。
 まるで左足だけ僕の身体では無いような感じがした。
 でも、僕は焦らなかった。
 ゆっくり、じっくり、リハビリを続ければ良いと思っていた。
 事実、僕の左足は驚異的なスピードで回復していった。
 
 その努力の甲斐あって、僕はついに走れるようになるまで回復した。
 僕は病院の先生から走る事のOKサインをもらうと、
 その足でグラウンドに向かった。
 白いラインが夕闇に眩しく映える。
 いや、それは僕の幻想だったのかもしれない。
 夢にまで見た、400mトラックがそこにはあった。
 僕は持ってきた運動靴を履くと、グッグッと足を伸ばす。
 リハビリの為に硬くなった足も少し柔らかくなっている。
 僕は一人グラウンドに立つと、何時も走りこんでいた場所に立つ。
 プールの横から、テニス場までの距離、
 100mが僕のテリトリーだった。
 そして何も無い場所に膝をつけ、スタートのポーズを取る。
 “用意”・・・・心の中の審判が言う。
 
「Go!!!」
 
 僕はそう叫んで走り出した!!!
 
 ・・・・だが現実はあまりにも残酷だった。
 あまりにも鈍重なスタートに加え、20mを過ぎた時点で
 膝が笑い出し、足がもつれ、僕は50mを走らずに止まってしまった。
 それは当時のスピードとは程遠い次元のものだった。
 当然といえば当然なのだろうか。
 何故か走るたびに左足に幻痛が走った。
 思うように足が出ない。
 最高の状態の僕が、霞む目の先を走っていた。
 だが僕は死に物狂いで走り続けた。
 あの時の自分を!
 生きていた自分を!
 取り戻したかった。ただ純粋に。
 
 気がついた時には僕はグラウンドの真ん中で寝転んでいた。
 星が、月が、闇が、僕の上で僕を嘲笑っていた。
 僕はどうしようもない感情に襲われ、ただ一緒になって笑った。
 あはははははは、ははははははは。
 両目から零れ落ちる涙が憎らしかった。
 
 
 僕は走れたその日から、走る事を止めてしまった。
 周りの人間は、リハビリが辛くなって逃げたのだと思ったかもしれない。
 でも、僕は風をきった時の、そのイメージ、快感を壊したくなかった。
 だが、本当は自分の過去の栄光に逃げ込んでしまったのかもしれない。
 
十章 〜飛べない鳥〜

 月日は僕の苦悩などまるでお構い無しに、
 その傍らを流れるように過ぎて行った。
 三年に進級して僕らは離れ離れになってしまう。
 自分と言うものをまるで出さずに、むしろ偽りの中に
 その存在を認められていた僕にとって、修学旅行は苦痛でしかない。
 心許せる人間さえ居ない中、僕は酷い孤独感の中で三日間を過ごした。
 ユキも僕と同様にその特異な性質を他人に理解されていず、
 周りが浮かれている中、ただ静かにその期間を過ごした。
 僕と彼女は違うクラスであったので、会える機会は限られていたが、
 それでも二人とも自分を出せる相手はお互いしかなかった為に、
 どちらとも無く会っていた。
 見知らぬ土地に来たからかも知れない。
 僕らは互いの存在を貴重なものと、一層感じるようになっていた。
 いや、再確認していた、と言った方が正しいかもしれない。
 二人はどちらも熱く愛を求め合うと言うタイプではなく、
 そう、静かに愛を育んでいった。
 
 運動会の日、共によく走っていた陸上部の同級生の活躍を、
 細い目で寂しそうに見詰めていた時に、
 僕の手を優しく包んでくれたユキの手は、とても温かいものだった。
 僕はその手をしっかりと握って、過去自分がやった事を思い出していた。
 圧倒的な差をつけての勝利。
 プライドをズタズタにされた陸上部の先輩。
 今、学校中の生徒の応援を一身に受けている陸上部の同級生は、
 よく練習で自分が1秒以上の差をつけて勝っていた人間だ。
 だが、彼は何時も僕の走りを研究していたし、
 日々の努力も練習量も、僕を軽く凌駕していた。
 陸上部の顧問は、よく僕にこう言っていた。
 
「半年後にエースを背負っているのは、アイツかも知れんぞ。」
 
 僕のプライドを刺激する為に言ったその言葉は、
 僕の故障によって皮肉にも実現した。
 
 もし、彼が僕の前に来て「どうだい?」と言ったら
 自分はどうなってしまうだろう。
 僕は首を振ってその想像を打ち切り、
 だが自分が陸上部の先輩にした行為を思い出した。
 僕があの時した行為とは、事実、そういう事なのだ。
 敗者に対する容赦無い行為。
 今もしも僕が、陸上部でも無い人間に、鼻で笑われたら・・・・?
 自分と言う人間の愚かさを、僕は再び呪い、憎んだ。
 そして、何時もそうと解った時には全て取り返しがつかないのだ。
 後悔・・・・三年になってから、一体何回この言葉を実行しただろう。
 僕はさながら風切り羽を取られた鳥のようなものだった。
 よちよち、と歩くだけの、鳥とも呼べない鳥だった。
 
 今の僕ならば、先輩達の気持ちが解る。
 自分の無念を、相手に託す気持ちと、悔しさと、不甲斐無さと
 どうしようもない感情が胸の中を焼き焦がす。
 だが、救われない事に僕は相手を恨む事はできない。
 全ては自分の軽率な行動が悪いのだ。
 そう思うと、先輩達に恨む相手が居た事が救われる。
 それが例え僕であろうと。
 
 運動会当日、その陸上部の同級生は何時も僕を見付けると
 声をかけてくるのに、その日だけは声をかけてこなかった。
 それが彼なりの優しさなのだろう・・・・。
 

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