それから約3ヶ月後・・・・・・。僕は病院のベッドの上にいた。 「“元の速さで”とは言ってなかったけどね。」 僕は窓の外を見ながら何の感慨も含めずにそう言った。 ユキは林檎を剥く手を止め、僕の方に悲しそうに微笑んで言った。 「卑屈なんだから・・・・。」 僕はその言葉に何の返答もせずにただ窓の外を見ていた。 ユキが部屋に入って来た時も、僕はずっと窓の外を眺めていた。 かれこれもう1時間近く外を眺めている事になる。 このままずっと一日中外を眺めているつもりだった。 誰かの瞳を見るのも、誰かに顔を見せるのも嫌なのだ。 喋る事さえ、辛かった。 僕の左足には白いギプスが巻いてあり、 それは天井から吊るされていた。 「随分暴れたみたいね。」 再び林檎を剥く手を動かしながら、彼女が言った。 「ふん・・・・現実逃避がしたかっただけだ。」 今もしてるじゃない・・・・と言いたそうな目をするも、 小さな溜め息を吐いてユキは器用に手を動かす。 「陸上部の先生は・・・・お見舞いに来たの?」 「あぁ。一度だけ・・・・“私の責任だ”って言って帰った。 そんな訳無いのにな。」 僕は自嘲気味にそう笑った。 「そうね。今回は完全に貴方の責任ね。」 冷ややかな言い方がこういう時はあまりに痛かった。 僕はカッとなってつい怒鳴る。 「黙れ!!そんな事解ってんだよ!!!」 言い終わった後に少し後悔して、両手を額に当てて声を絞り出す。 「くそ・・・・お前こそ何しに来たんだよ。・・・・慰めに来たのか? だったら帰ってくれよ・・・・。」 キシッ ベッドのスプリングが少し軋んだ。 ユキが座ったのだ。 僕が音のした方向に顔を上げると、綺麗に八等分された 林檎の一個が、口元につきつけられていた。 「食事に全然手をつけてないんだって? 食べなきゃ駄目でしょ?」 「食欲が無いんだよ・・・・。」 そう言って僕はフイッと再び窓の方を向く。 ユキはフォークに刺さった林檎をやや呆れ気味に皿の上に戻し、 僕の横顔に話しかける。 「何時までそうやってスネているつもり? 前、貴方言ったわよね。自虐的な人間は、誰かに “君はそんな人間じゃない”って励まして欲しいから そういう行動をとるんだ、って。今の貴方、そんな感じよ。」 僕は愕然として彼女の顔を見た。 だが、視線を合わせる事ができずに、うつむきながら叫ぶ。 「左足の靭帯が切れたんだぞ!? もう俺は全速で走れない!! 何でも器用にこなせても一流にはなれなかった俺が、 初めて本気になれて、努力できて、結果がでたものなんだ!! それが消えたんだ!いわば俺の“存在意義”が無くなったんだよ!! そんな現実が受けとめられるかよ!!!!」 怒号だった。自分に対する怒りだった。心の叫びだった。 そんな僕の顔を、ユキは柔らかく優しく その胸の中に抱きしめて、言った。 「ねぇ、そんな悲しい事言わないでよ。貴方は貴方じゃない。」 僕は彼女に頭を抱えられたまま何も言わない。 いや、言えない。 「貴方が走れなくなったって、私は貴方の素敵な所を知ってる。 それじゃ駄目?」 僕は何も言わない。目を閉じて、ユキの体温を感じていた。 トク、トク、トク。 小さな心臓の鼓動音が、悲しく彼女の中で響いていた。 だが、不意に彼女が笑い出した。 「なんだか、付き合いだした時の事を思い出すね。」 「・・・・なんか・・・・甘えっぱなしだよな・・・・俺。」 ユキの手を優しくふりほどいて、 僕が何時もの皮肉的な笑みで彼女を見る。 「全く。たまには私にも甘やかせてよ。」 ふふっとユキが笑って僕の瞳を覗き込む。 「やっと元気が出たみたいね・・・・さて・・・・私はもう帰らなきゃ。」 ベッドから立とうとする彼女の手を、僕は引きとめた。 そして、下にうつむきながら恥かしそうに呟く。 「林檎、食わせてくれ・・・・。」 その、僕に似合わない仕草にユキはクスッと笑って、 フォークの刺さった皿の上の林檎を僕の口に運ぶ。 僕はそれを大人しくゆっくりと咀嚼し、目で彼女に訴える。 「はいはい。何時もこれくらい可愛いと良いんだけどねぇ。」 彼女は可笑しくて仕方ない、と言った表情で次の林檎を僕の前に出す。 だが、僕は右手で彼女の身体をグイッと引き寄せると、 左手でユキの頭を逃げられなくし強引に唇を重ねる。 「〜〜〜〜〜〜!!!」 いきなりの行動にユキがもがくも、僕は放さない。 口移しで林檎ジュースを彼女に飲ませる。 彼女の唇から零れた滴が、白い喉をつたっていく。 僕はその滴をゆっくりと舌で舐め取った。 「ふ、君もマダマダだね。」 にんまりと笑う僕の額を真っ赤な顔のユキがピシッと人差し指で弾く。 頭の痛そうな素振りを見せて、溜め息を吐いて僕に苦笑する。 「嫌に柔順だと思ったら・・・・元気になりすぎ。 あーもう!・・・・帰るわよ?」 僕は少し寂しそうな顔をしたが、すぐに何時もの笑顔で彼女に言う。 「あぁ・・・・そうだね。今日は悪かったな。 ・・・・なぁ、一つ質問して良いか?」 不思議そうな顔で彼女が答える。 「何?」 「あのさ・・・・なんで3ヶ月前の陸上の大会、来てくれなかったんだ?」 その質問の後、しばらく黙っていたユキは 小さく溜め息を吐いて僕の顔を見る。 「その質問・・・・3ヶ月間ずっと我慢していたんでしょう。 全く意地っ張りなんだから・・・・。 ごめんね、大会新記録の走りを見てあげられなくて。」 彼女はそう言って少し下を見詰めた後、僕の顔を見てこう言った。 「・・・・あの日は、お母さんの親戚の人達が来ていて行けなかったの。」 僕はその答えにやや意外な表情を見せつつも、そのすぐ後に笑った。 「そ・そうなんだ・・・・。ハハ、まぁそれじゃあ仕方ないかぁ。」 僕の言葉にユキが怪訝な表情を見せて、聞く。 「何だと思っていたの?」 「いや・・・・その、なんだ・・・・。」 言葉を濁す僕。ますます不思議そうな表情を見せる彼女。 「ほら、あの、男でもできたのかな〜・・・・って思って・・・・。」 パシィン!! 狭い病室に心地良い音が響き、バタン!という扉が閉まる音が続く。 「・・・・痛ぇ・・・・。」 一人残された僕は、はたかれた頬を撫でつつも、 嬉しそうに外を眺めていた。 (←前の章へ) (次の章へ→) |