一人ぽっち

 最初の出だしが早いのは僕の自慢だった。
 途中、走っていて特にミスをした覚えも無く、
 最初のリードを何処で失ったのかが僕には解らなかった。
 
「隣、良いかな。」
 
 僕は突然上から降ってきた声に驚いて顔を上げると、
 そこには陸上部の部長が立っていた。
 
「・・・・・・どうぞ。」
 
 だが、本当は座って欲しくなかった。
 陸上部の中でも、今一番会いたくないのはこの部長だった。
 というのも、110mハードルの椅子を賭けて勝負したのが
 この部長とだったからだ。
 しかもその後も、部長は態度を変えずに僕の面倒を一番良く見てくれた。
 そんな人に一体どんな顔で話せば良いのか。
 僕は困惑した。自然に顔がうつむいてくる。
 そんな僕の心中を察したのか、部長は何も言わずに隣に座った。
 そして、前に広がるトラックを静かに見詰める。
 
「あれは、勝てない。」
 
 唐突に、部長が言った。
 僕は思わず部長の顔を見る。
 部長は悲しげでも無ければ微笑んでもいなかった。
 その飄々とした表情の中に隠された心情を、
 僕は知る事は勿論、察する事さえ出来なかった。
 
「お前の事だから、負けた事を気にしていると思ってな。
 お前は先を走っていたから解らなかっただろうけど、
 一位だったヤツ・・・・まるでハードルが無いかの様に走っていたよ。
 化け物だよ、アイツは。腰が定位置から動かないんだ。
 ・・・・だから気にする事は無いさ。
 お前は俺らの期待以上に走ってくれた。」
 
 そう言って僕の肩をポン、と叩く部長。
 僕は部長の言葉はきっと自分自身に言っているのだろうな、
 と思ったが、勿論そんな事は言わなかった。
 言っても自分と部長のプライドが傷つくだけだし、
 何の意味も無い事だと思ったから。
 
 部長が無言で立ち去った後、風に吹かれながら
 僕は強く奥歯を噛み締めた。
 かつて無いほどの強い感情がこみ上げてきた。
 それは怒りとも呼べたし、屈辱とも呼べたし、
 後悔とも呼べたし、“勝ちたい”という思いでもあった。
 最早頭の中からユキの事は抜けていた。
 いや、考えない様にしようと懸命に努力していたのだろうか。
 何はともあれ、「100m短距離走」、それが今の僕の全てだった。
 
八章 〜飛翔〜

 100m短距離走決勝の時間がやってきた。
 僕の身体は充分に温まっていた。
 僕は万全の用意と今までに無い気合で自分のコースに並び、
 脚をゆっくりと伸ばしていく。
 隣のコースの選手は、例のロンゲだった。
 僕に気付いてそのロンゲがにやけ面で近づいてくる。
 
「あぁ、アンタ早いけど、悪いねぇ俺最初から本気で走ってないから。
 110mハードルの時みたいに先には行かせないよ。
 まぁ先行かれてもどうせ抜くけど、ネ。さっきみたいに。」
 
 へへへ、とそう笑ったロンゲに僕が言う。
 
「そいつは楽しみだね。」
 
 ニコッとそうロンゲに微笑んだ僕の精神レベルは、
 とうにロンゲの上を行っていただろう。
 考えてみれば、僕もロンゲと一緒だったんだ。
 自分の力を過剰に評価し、それに対しプライドを持っている人間は
 確かに「強い」が、予想外の事件が起きた時にはあまりにも「脆い」。
 自分でその事を認めたくないからだ。
 だが僕は、既に挫折を知った。
 
 ロンゲは、過信の為に僕の言葉を意外なものとして取るだろう。
 そして、それは僕のペースである事を意味する。
 
「用意。」
 
 審判が静かにそう言った。
 花形であるスプリンター決定戦に、場内が静まる。
 僕の心に、緊張が無かった、と言えば嘘になる。
 だがその緊張よりも、『楽しむ心』の占める割合の方が大きかった。
 僕は子供の頃、走る事が好きだった自分を思い出す。
 今まで自分が走っていたのは、自己の存在を確立する為だった。
 でも、その走りの根底は、もっと純粋なものだったのだ。
 
『走る事が楽しい。何時から忘れたんだろうな、この気持ち。』
 
 僕は自然に微笑んでいた。
 
 
 パァァアンン!!!
 
 
 100m。
 記録にすれば十秒と少し。
 僕はその数秒間を、一人で思いきり楽しんだ。
 

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