それから僕は陸上部に入部した。 自分達のプライドをズタズタにされた筈の三年達は、 しかしそんな事を気にせずに僕と接した。 そしてそれは僕の気を随分と楽なものにしてくれた。 そこでの僕の仕事は『走る事』のみであった。 笑わせなくても良い、ご機嫌を取らなくても良い・・・・。 そこでの時間は全て自分を磨く為に費やせた。 僕にとってそんな行為は初めてだった。 自分の為に何か努力する。 それが、こんな楽しい事なんて! 僕は走る度に速くなり、飛ぶ毎に距離を伸ばした。 そして、冬が来る・・・・。 県の陸上記録会の当日、僕は焦っていた。 緊張とか、そういう繊細な精神は僕には無い。 ならば何故焦っていたのかと言うと、どの客席を見渡しても ユキの姿を見つける事が出来なかったのである。 ずっと前から、今日大会があると言ってきた。 そして、応援も頼んだ。 彼女は爽やかに微笑み、「行くよ」と快諾してくれた。 しかし、今日そこにユキの姿は無かった。 やがて僕が走る番になった。 種目は「110mハードル」。 僕は純粋な短距離よりも、むしろこの種目の方が好きだった。 この種目は足が速いだけでは駄目で、身体の柔らかさ、 バネ、フォーム、全てが必要だった。 そしてそれら全てがバランス良くなければならなかった。 この日の為に、僕は顧問の教師が課す、 鬼の様な練習メニューに耐えに耐えてきた。 それが自分の為であると解っていたので途中で投げ出す事も無く、 僕は己を鍛え上げてきた。 そして今日はその成果をいかんなく発揮する時だったのである。 だが、僕は既に精神的に負けていた。 (何故来ない?) 考えても解るはずの無い事を何十回と悩んだろう。 やがて背と胸にゼッケンがつけられ、スタートラインに並ばされた。 僕は自分の頬を強く叩き、気合を入れた。 (今はそんな事を考えている場合じゃない) 頭でそう思っても、心は正直であった。 足を伸ばし手を伸ばし、軽く頭を振るその時までも、 釈然としない思いが胸中を支配していた。 「整列して下さい。」 そう審判に言われた選手達が次々と構えを取ってラインに手を添える。 僕もしゃがみ、スタートの構えを取った。 その僕の目前に映るのは・・・・虚ろな風景であった。 「用意。」 そう言って台に立つ審判が手に持つ銃を上に掲げる。 周りの人間の喉から小さな音が漏れ、スタートの合図を待った。 パァァン!!! その音に合わせて屈強な男達が次々と目の前にある壁を躍り越える。 精悍な顔つきに険しさが加わり、その躍動は見る者を魅了する。 沸き上がる歓声! だが、僕の耳・・・・いや、心にはそんな歓声も届かず、 ただ目前の障壁を機械的に飛ぶだけだった・・・・。 決勝に残れるギリギリの順位だった。 続けざまに行われた「100m走」の予選も、予選組み第6位。 下にはもう誰も居なかった。 僕は自分の不甲斐無さと、意外なまでの精神的弱さを 露呈してしまった事に、腹が立つやら情け無いやらで、 一人、目が虚ろなまま木陰に座りこんでいた。 そしてそこに、僕の顧問が現れた。 「なんだ、あのザマは。」 顧問の第一声はこれであった。 良い成績が出ないで怒ってるのか。 どうもご期待に添えないで、と言いそうになるも、 僕は顧問の顔を見ないで、前を向いたままそれに答える。 「決勝に残れたから良いじゃないですか。」 そう言うと、顧問は僕の襟首を掴み、僕を立たせた。 「何をいじけているかは知らんがな。 お前が出場する影には、涙を飲まなければならん 人間も居るって事を忘れるな。 それになぁ。お前が走っているのは自分の為だろうが?」 顧問のその声は何処か悲しげであった。 掴んでいた襟首を離すと、自分の持ち場に帰って行った。 だが僕は釈然としなかった。 自分が走れるのは自分に力があったからであり、 他人が走れなかったのはソイツの力が無かったからだ。 だが、そんな考えはすぐに改めた。 彼が走るのを、精一杯応援してくれていた 先輩達の顔を思い出した為である。 そして決勝の時間が来た。 最初は110mハードルだった。 「頑張れよ」そう言ってくれる先輩達の声が痛かった。 相変わらず観客席にユキの姿は見えない。 僕は身体中の筋肉を伸ばし、ゼッケンをつけられている間、 目を瞑って呼吸を整え、雑念を消去していく。 そしてキッと空を睨んだ後、前方のゴールラインを見据えた。 「用意。」 相変わらずの冷静な声で台にいる審判が言い、銃を空に掲げる。 横に並ぶ選手達の中には目を閉じて精神集中する人間もいた。 だが、僕の横にいた長髪の選手はそんな人間を見て笑っていた。 僕は怪訝に思ったが、人の事は気にせずに瞳の先に映るゴールに集中した。 パァァン!!! グッと脚の筋肉が弾け跳び、前傾姿勢のまま選手達は飛び出した。 腰ほどの高さのバーを一番始めに越えるまでの数メートルの間、 身体一つ抜き出ていたのは・・・・僕だった! タンッ! 大地を蹴る心地良い音が、大声援に沸きあがる競技場内に響く。 着地した脚を踏ん張って、心の中で三歩数えまた次のハードルを越える。 僕は背中から人の気配が徐々に遠のいて行くのが解った。 最高のスタートに、僕は自分の本来の走りを取り戻していた。 練習通りに、軽々とハードルを飛び越えていた。 だが。 他の追随を許さない走りをしている僕のその真横に、 ザッという音と共に黒い影が現れた。 そしてハードルが現れそれを越える度に僕はその黒い影から離された。 僕はそんな現状が理解できなかった。 「110mハードル」は自分が一番努力してきたものであり、 顧問から十分に特訓を受けてきた。 最後はバランスを崩してしまった僕が、 一位の選手に大差をつけられ負けていた。 順位で言えば二位だったのだが、そんな順位は 僕の慰めには無論ならなかった。 走り終えても僕はしばらく呆然としていた。 そこへ、例の長髪の男がやってきた。 「アンタ、なかなか速かったよ。」 そう言って含み笑いをして、長髪の男は去って行った。 僕は眉をひそめた後、ようやく理解する事が出来た。 あの男が一位の選手だったのだと。 そしてそれを納得するのにはさらに時間を要した。 (あんなヤツに負けたのか・・・・俺は!?) 自分の無力さに腹が立ち、また、先輩達にも会わせる顔が無く、 何時の間にか、僕はまた木陰に座りこんでいた・・・・。 (←前の章へ) (次の章へ→) |