一人ぽっち

 やがて暑い夏が過ぎ、季節は秋へと移り行き、
 運動会の時期がやってきた。
 普段は全く重宝がられない体育会系の人間達は、
 ここぞとばかりに自分の存在をアピールしだす。
 変わって文科系の人間達への扱いは酷いものだった。
 そしてそれはパソコン部である僕に対しても同じ事だった。
 
 ところが、僕は運動会の花形である短距離走に出場する事になった。
 これには理由があり、他の男子生徒達は綱引きや棒倒しに
 行ってしまった事、僕の居たクラスに陸上部が一人も居なかった事、
 そして対戦する予選の相手は、陸上部ばかりを揃えた三年だった、等だ。
 つまり、僕はただ噛ませ犬として出されるだけであり、
 なんの期待もされていなかったという訳だ。
 だが、僕は「それでも良いのか?」と担任に聞かれた時、
 ニコッと微笑んで「ええ、構いません」と答えた。
 その笑顔の意味を、担任は当日知る事になる。
 
 運動会当日、短距離走の予選が始まった。
 次は僕が走る番であったのだが、
 僕のクラスからの応援は一人も居なかった。
 変わって三年達の応援は凄まじい物があった。
 陸上部の三年達は、お互いを意識しているようだった。
 そして誰も僕を気にしていなかった。
 僕は苦笑しつつも、ふと、広いグラウンドの方を見ると、
 ユキが遠くからこちらをその透明な瞳で見ていた。
 
「負ける所を見に行く必要は無い、何て言ってたのに。」
 
 僕はフッと、遠くから心配そうな顔でこちらを見ているユキに微笑んだ。
 そしてスタートラインに並び、スタートの合図を待った。
 
「よぉーーーーぅい・・・・・・・ドン!!!」
 
 パァン!!と、心地良い音が鼓膜に伝わるや否や、
 僕は全身の筋肉を躍動させて走った。
 周りの景色など見なかった。いや、見えなかった。
 ・・・・僕が白いゴールラインを足で踏む時、僕は一人だった。
 
六章 〜覚醒〜

 しばらくその場は騒然としていた。
 陸上部の三年は、息を弾ませながらその場に座りこんでいた。
 そして僕をまるで化け物を見るかの様な目で見詰めている。
 僕は少しサディスティックな快感を味わった後、
 自分のクラスの待機している場所にスタスタと戻って行った。
 そう、僕は二位以下に圧倒的な差をつけ、一位でゴールしたのである。
 
 そしてそんな僕を迎えたのは驚嘆の溜め息だった。
 僕はそれらの嫌味とも取れる賞賛を軽くあしらい、
 ユキの隣に行って、座った。
 彼女は何故かムスッとしている。
 僕が汗を拭きながら言う。
 
「見ててくれて、ありがと。」
 
 僕がニヤッとしてそう言うと、彼女は少し赤くなって横を向いた。
 
「・・・・何で足が速い事を黙っていたの?」
 
「別に・・・・言う事でもないし、さ。それにもう何年も動いてないし・・・・
 実際に走って見るまで解らなかったんだよ。大げさな事を言って
 格好悪い所を見せるのも嫌だしね。」
 
 そう僕が笑って見せると、ユキも静かにクスッと笑った。
 
「口八丁、手八丁が貴方の生き方じゃなかったの?」
 
 そう彼女が悪戯っぽくからかうのに、僕は思わず苦笑した。
 
「確かに・・・・でも、決勝では学校一のスプリンターが
 居るらしいしね。ここまでさ。」
 
「そんな事を言いつつも、勝つつもりなんでしょう?
 最初から期待してないけど・・・・頑張ってね。」
 
 僕が肩をすくめて見せると、彼女はあはは、と笑った。
 相変わらずの魅力的な笑顔だった。
 
 そして、短距離走決勝の時間がやってきた。
 ざわめくグラウンド。
 他の競技は全て終了していて、残る最後の競技がこれだった。
 つまり、全校生徒の目が、僕らに注がれている訳である。
 しかし僕はまるで緊張していなかった。
 むしろ、身体中に走る緊張を快感に変えていた。
 僕は昔から緊張とは程遠い人間であり、
 こう言う場では力を十二分に発揮するタイプであった。
 その僕の横顔を、さっきからずっと睨んでいる男が居た。
 その履いている靴、応援されている量、引き締まった筋肉から、
 容易に陸上部のエースだと察する事ができた。
 しかし、僕は目の前に朧気に映る白線のみを見詰めていた。
 スプリンターたるもの、最後に勝利した者を包む白線だけを
 見ていれば良い、僕はそう思っていたから。
 走る事は、僕にとって自分自身との競争であったのだ。
 
 そして、僕は走る。
 一人でひたすら走る。
 前に待つ、白い、ラインの為に。
 それは、僕が遠い昔に捨てた、懐かしい感情だった。
 ・・・・そう、全ては自分の為に・・・・。
 
 
 その日の帰り道を、僕は何時も通りユキと歩いていた。
 だが、その風景が何時もと違っていた。
 この学校の生徒達と行き交うと、必ず相手が僕の顔を見ていくのだ。
 
「もてもてじゃない?」
 
 ユキが少し笑ってそう言った。
 僕はムスッとしてそのからかいに異議を唱える。
 
「そんな為に走ったんじゃない。」
 
 僕の仏頂面にユキがプッと吹き出して笑う。
 
「解ってるわよ、そんな事。貴方のあんな真剣な表情、初めて見たもの。」
 
 そう言って彼女は僕の顔をスッと覗きこんだ。
 僕はその透明な瞳に思わず顔を背ける。
 
「ねえ。」
 
「ん。」
 
「陸上部に入ったら?」
 
「はぁ?」僕はついそう言いそうになった。
 それだけ彼女の言った事は突拍子の無い事だった。
 僕が驚いてユキの顔を見詰めていると、
 彼女はどう説明したものかと、手を動かしていたが、
 言葉は生まれなかった様だ。
 やがて諦めて小さな溜め息を吐く。
 
「・・・・ええと・・・・その、才能を潰すのは勿体無いと思ったの。」
 
 僕はその言葉に驚いた。走る事が自分の才能などと
 思った事は一度も無かったからだ。
 しかし、僕はそれも良いかもしれないと思った。
 自分の足が戦慄くのが解った。
 僕の足は、100mのラインを踏む快感を覚えてしまった。
 僕の身体は、向かい風の心地良さを知ってしまった。
 僕の心は、勝利の快感を味わってしまった。
 そして何より自分が、『もう1度走ってみたい。』そう思っていた。
 だが、それには問題があった。
 僕は前を向きながら呟く様に言った。
 
「でも、それじゃあ・・・・。」
 
『お前と一緒に居る時間が無くなる・・・・』
 そんな台詞、僕は彼女の前では死んでも言えなかった。
 結局、口をモゴモゴとしているだけで終わった僕の顔を、
 不思議そうな顔でユキが見詰める。
 
「それじゃあ?」
 
 少し微笑みながら、聞いてくる。
 僕は、彼女は実は解って聞いているのでは、とさえ思った。
 
「ま、可愛い彼女の数少ない頼み事だ。やってみるか。」
 
 そう何気なく言って誤魔化すと、
 ユキの顔が見る見る真っ赤になっていく。
 
(う、そんなに恥ずかしい台詞だったかな・・・・。)
 
 そう思った僕が今言った言葉を反覆して見ると、
 急に僕も恥ずかしくなって真っ赤になった。
 
「自分が言って恥ずかしい事なら言わなければ良いのに・・・・。」
 
 ユキがまだ真っ赤になりながらもそう抗議する。
 僕は、「全く。」と言って歩き続けた。
 落ちかけている太陽が、若い僕らを冷やかす様に世界を赤く染めていた。
 

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