それから僕は毎日の様にユキの家に行く事になった。 最初のうちは、母親に炊事をさせていた為に料理のレパートリーの 少ない彼女に、料理を教える為に訪問する、という名目だった。 僕は両親の帰りが何時も遅かったから、自分で料理を作らなければ ならなかったので、料理のレパートリーは自然と多いのだ。 だが、それも時が経つにつれて、何の理由が無くても 僕は彼女の家に上がりこむようになっていた。 勿論、僕らが一緒に帰っている姿や、僕が 彼女の家に通っている所を誰かに見られない筈が無い。 『冷嬢』の異名を持つユキと、常にクラスを笑わせている 『道化』の僕が、付き合っている筈が無い。いや、付き合っている。 と、クラスを半分に分ける大論争が起きた。 しかし、当の僕らは質問される度に、お互い苦笑するばかりだった。 というのも、当の本人達でさえ、自分達が付き合っているかどうか、 解らなかったのだ。 付き合っていると言えば、付き合っているのだろうし、 付き合っていないと言えば、付き合っていない様な気がした。 どちらにしても、僕はユキが必要だったし、彼女もそうだったのだろう。 そしてそれは、「付き合って?」「解った」と言って初めて成立する様な、 安っぽい関係でない事は確かだった。 ある日僕と彼女が二人で話をしている時に、同じ部の、 例の黒ブチの眼鏡をかけたインテリ風の男が 唐突に僕らを冷やかしたのである。 「ふむ、ご両人。いちゃつくのはお家に帰ってからにしてくれないかな?」 嫌な含み笑いがクラス中に漏れる。 ユキは少しムッとしたが何も言わずに机に肘を立て、 その手の平に自分の顔を乗せた。 彼女の良くやるポーズで、無視を貫徹するつもりなのだろう。 一方僕は、以前ならきっと何か誤魔化すか笑いを取るかして その場をやり過ごすのだろうが、いい加減誤魔化したり 否定するのにも馬鹿馬鹿しくなっていた。 ・・・・僕はユキの肩に手を回して、彼女をグイッと引きつける。 「羨ましいんだろう?」 かぁっとインテリ風の男の顔が赤くなる。図星だったらしい。 僕がニヤッとして横を見てみると、彼女は少し赤くなりながら、 ムスッとして下を見ている。 教室内は、何時もの僕の行動とはあからさまに違う その大胆な行動に、しばらく沈黙が続いていた。 その日、ユキと僕が並んで帰る時も、その沈黙の余波が及んでいた。 僕は、彼女に言う言葉が見つからずにただ上をむいて歩いていた。 今日の発言はクラスにとっては『恋人宣言』であったのだが、 僕にとっては彼女に対する『告白』であった為に、 何となく照れ臭く、かける言葉が見つからないのだ。 横をチラッと盗み見ると、ユキは今までと全く変わらない その透明な瞳で前を向いて歩いている。 変化の無いその態度に、僕は益々話し辛くなってくる。 そうこうしている内にとうとうユキの家に着いてしまった。 僕はムスッとしながら彼女が家の鍵を開けるのを見ている。 彼女は鍵を開けた後、何時もと変わらぬ言葉を僕にかける。 「それじゃあ、また明日。」 何時もと変わらぬその無表情が今日はとてつもなく痛かった。 僕はその言葉を聞いて、意を決してユキに切羽詰った様な顔で尋ねる。 「あの・・・・。まだ答えを聞いてないんだけど・・・・。」 僕のその真剣な表情に彼女は思わず怪訝な表情を見せる。 「え?なんの?」 彼女は本気でそう尋ねた。本当に何の事だから解らないらしい。 「だから・・・・今日の・・・・アレ。」 僕は顔を真っ赤にしながらずっと下をうつむいてそう呟く。 ユキはしばらく首を傾げて考え込んでいたが、 ようやく何の事だか解ったらしい。 プッと吹き出すと声を上げて笑い出した。 僕はキョトントしてその場に立ち尽くした。 やがてムスッとして横を向き、顔を真っ赤に染めつつも批難する。 「・・・・何が可笑しいんだよ。」 ユキは涙目になりつつも、湧き上がる笑いを堪えて僕に抗議する。 「だって・・・・学校ではあんなに大胆に公言したのに、 何を気にする必要があるの?」 彼女は可笑しくて仕方が無い、と言った様な表情で僕に微笑んで見せる。 「君の心。」 僕は横を向きながらその表情を見せない様にして答える。 「私の心が解らないの?」 ユキはクスッと笑って僕の顔を覗き込む。 それも彼女が良くやる癖だった。 「言われなきゃ解んないだろ!」 僕はからかわれている、と思って思わず怒鳴った。 ふとユキの顔を見ると、何かとても寂しそうな瞳をしていた。 彼女は少し下を向いて、小さく溜め息を吐き、僕を見上げた。 「・・・・そんな寂しい事言わないでよ・・・・。」 ユキはそう言って僕の顔をじっと見詰めた。 その透明な瞳は明らかに僕に対し怒っている様だった。 僕は何度かその瞳を見てきたが、その瞳は何時も僕を悲しくさせた。 「・・・・俺は自分に自信が持てないんだよ・・・・。」 僕は何時も彼女の前では心を裸にされていた。 僕は何時しか彼女に対して自分の弱い部分も、 脆い部分も全て見せていた。 それは、勿論ユキに対してのみだった。 「・・・・何時もそうだけど、貴方は自分に対して自信を持ち無さ過ぎる。 そして、とても弱い。お兄さんへのコンプレックスが あるのかもしれないけれど、貴方は、貴方よ?」 ・・・・ユキは僕の手を握って、必死にそう言い聞かせた。 しかし長い間に作られた、僕の心に氷りついた壁を破る事は、 そう簡単に出来る事ではなかった。 僕は、彼女の手を振りほどく。 「俺の何処に自信が持てる?俺の何処が優れている?慰めは、痛い・・・・。」 泣きそうな声でそう言って、あまりの自分への情け無さに後ろを向く。 ・・・・ユキは少しの間を置いた後、僕の背中にそっと身体を預けて、 小さい声でこう囁いた。 「ねぇ・・・・お願いだからそんな事言わないでよ・・・・。 ・・・・私は何も持たない人を好きになんかならないわ・・・・? ・・・・あの時、私本当に救われたの・・・・。 ・・・・それだけは信じてよ・・・・。」 普段なら絶対に言わない様なその言葉に、僕は思わず振り返った。 ユキは、声も上げずに泣いていた・・・・。 自分が傷ついたから泣いたのか、僕の弱さを思って泣いたのか・・・・。 僕は、最早そんな事どうでも良かった。 ユキのその涙の跡を親指でスッと拭ってやった後、 そっと、優しく唇を重ねた。 そして僕らはこの日から、共に同じ時を歩む事になった。 (←前の章へ) (次の章へ→) |