白魔術、或いは天使


 大学五年の夏、僕はまだバンド活動に追われていた。蝉時雨の坂道。バイクとチャリンコの並ぶグランドの入り口の隅に部室はあった。エアコンなんてあるはずもない埃っぽい楽園。どうしてか、ベース弾きに落ちぶれていた筈が、その夏の僕はインチキドラマーになっていた。二年下の奴らは卒論の実験に追われる僕をまだ諦めてはくれなかった。工学部の研究室の夏は短い。最後の夏休みは一ヶ月だった。最後の夏はバンドとじいちゃんの看病で過ぎていった。
「じいちゃんが危ないんだよ...。」
「ゴンタさん、ダイジョブ?もし、ヤバかったら...。俺達いいから...。」
 留年した去年。奴らは、これでもかというくらい、ライブの話を集めてきた。お祭り、ダンパ、コンテスト、女子短大の学祭...。ほとんど週一のライブ。忙しかったけど、充実した日々。その余波が、まだ続いていた。8バンドしか参加しなかった出来たてのコンテスト。何かの間違いでこの県の代表なるものに選ばれてしまった。全国大会は8月。決戦は
中野サンプラザ。それを(いいから)で済ますなんて出来ない。じいちゃんには、でも生きて欲しい。末期の肺ガンだかなんだか知らないが、そんなもの糞食らえだ。絶対死なせない。そんな空気の短い夏だった。そんな必死な夏だった。

 本屋に寄る余裕がこぼれ落ちた。神秘主義から離れて、随分時間が経っていた。普段なら絶対手に取らない雑誌の表紙に目が止まった。(白魔術で願いを叶える)そんなコピーが幻惑した。何にでもすがりたい気分だった。
 家に帰るなり貪るように記事を読む。聖水の作り方。天使を呼ぶ呪文。帰す呪文...。間髪入れずに行動に移る。聖水を作るのに適した方角の部屋に籠もり、窓を閉め切る。雑誌片手に呪文を唱える。次は天使を呼ぶのに適した方角。そこでも夏の暑さの中、窓は閉め切った。間違わないように呪文を確認する。「なんとかかんとか〜じゅげむじゅげむ〜」
目を閉じて天使の降臨を待つ。なかなか来ない。何か間違ったか確認する。もう一度呪文はやり直しだ。「なんとかかんとか〜じゅげむじゅげむ〜〜」暫く緊張し、落胆の予感にも目を開けられずにいるた。目眩とは違う。血が吸い取られていくような、不思議な浮遊感に呆気に取られる。天使が来た?「?」と「!」が頭を駆け巡る。さあ大変だ。待っていたのに、準備不足だった。えーっと、願いを叶えて貰う呪文はっと...。
慌てて雑誌のページをめくる。口ずさんだ呪文で、なぜか現実に引き戻されてしまった。何が起こったか判らずに、慌てる。雑誌を見直す。するとどうだろう。今の呪文は天使を帰すヤツだったのに気が付いた。呆然自失。しかし気を取り直して、もう一度、天使を呼んでみる。何度唱えても、何を念じても、あの浮遊感は二度と戻って来なかった。

 間抜けな魔術師は、腑抜けな身体を引きずってじいちゃんの枕元にやって来た。呪文を書き写した紙切れと無駄になった聖水の小瓶。転移した肉腫のようなものがじいちゃんの頭蓋骨の上で盛り上がっている。もう言葉もあまり通じなくなったあなたの痛いところが僕にはわかる。膨れた肉に聖水を垂らす。呪文の紙を胸の上に置いた。(ゴメンよ、じいちゃん、僕、へまをしちまったんだ...。もう少しで、救えるところだったのに、ゴメンよ...。)

 じいちゃんはサンプラザの三日後に息を引き取った。その朝、僕は喉に溜まったタンを吸い取ってやる方法を考えていた。洗面台で点滴の使い捨てのチューブをストローにするべく加工していた。意味も無くタオルが落ちた。「ハッ」としてじいちゃんの部屋に戻った。じいちゃんの胸が最後の息を吐き、そして止まった。じいちゃんは最期を僕だけに見せてくれた。それが全てだった。

 白魔術のページの最後には注意書きがあった。決して私利私欲の願いをかけてはいけません。願いが叶っても、同等以上のお返しがあります。無償の心の願いになら天使は微笑んでくれます。


 生臭い僕は、それ以来、天使を呼ぼうなんて思ってもみないんだ。あの時の呪文なんて、とうに忘れてしまったしね。でも天使を呼べたなんて妄想の記憶が、僕を違った色に染めている。煩悩を捨てきれないことを受け入れることは、捨てたと言い張るよりましなんだよね。君は天使を知ってるかい?天使は誰にでも微笑んでいるんだよ。

 

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