洗脳についての2,3の考察


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 先日、大学時代のサークルの先輩の訃報を聞いた。まだ三十代の死。そしてその死因は...××。二日酔いのぼけた頭にはそのサークル時代からの友人の声は趣味の悪いジョークにしか聞こえなかった。二日酔いのせいかショックのせいか、私の思考や感情はしばらく凍り付いたままだった。
 通夜の時もまだ実感が無く、同姓同名の人違いじゃないかなんて思った。或いは思いたかったのかもしれない。しかし遺影には力無く微笑んでいる当時より 髪の毛の短い先輩が写っていた。それは紛れもない事実の様だった。しかし私には到底納得出来る代物では無かった。なぜなのか。命より大切な仕事って何?それがあなたの答えなのか。部外者には理解出来ないこと?それ以外逃げ道のないデッドエンド。
 洗脳なんだなって何となく感じたんだ。普通の生活の中、ごく普通の人間が受ける洗脳。そんなこと有りそうにないとあなたが思っているならあなたもまた、ある種の洗脳を既に受けているのかもしれない。

 オームが騒がれていた頃、洗脳という言葉が世間を駆け巡っていた。有識者は洗脳についてコメントを述べ、簡単に洗脳される現代の若者の気質について色々と解釈をくわえていた。私はそれらを聞きながらなるほどと思ってみたり、そいつはどうかなと感じたりした。またもう若者とは呼ばれにくいであろう自分の場合に当てはめてみたりした。しかしそいつも、所詮ブラウン管の向こう側の出来事でしかなかった。
 ある時、いつものようにワイドショーは飽きもせずオームを報道する中、ちょっと面白い事件があった。だれか確か、青山総本部に車で突っ込んだんだという。報道陣が常時詰めていたその場所での事件は一部始終がカメラにとらえられていた。ポーズだけで怪我さえしてない様な人騒がせな容疑者はすぐに警官に取り押さえられ、連行された。見た目ヤクザ風のその男は連行される途中、なにか捨てゼリフを吐いた。その言葉が私の耳を奪った。
「何が洗脳じゃ。おめえら麻原に洗脳されてるか知らんが、わしら極道は極道に洗脳され、会社員は会社に洗脳され、わしらみんな、この社会に洗脳されてるんじゃ、ぼけ」
 記憶は定かではないが、確かそんなようなことを言っていたと思う。私はその時、私の中で何かが弾けて、足元がぐらつくのを感じていた。その言葉は何ら間違っていない。まさに正論の様な気がした。そう思うと私の脳味噌は、しばし軽いパニック状態に陥った。

 洗脳とは一体なんなのだろうか。私には、まだよくわからない。ただその言葉に対して私が持っている漠然とした印象を、本来の意味に対しての個人的な拡大解釈として許してもらえるなら、こういった事なのではないだろうか。
「ある事柄(教義とか慣習とか)をそれ以前の議論や成り立ちを深く理解することなく(強制的、或いは半強制的に、またはその強制的である事さえも意識の下に封じ込める形で)受け入れること。」
そう考えると様々な物事の土台が、自分にとっていかに不確かで未確認なのかが感じ取れてきた。何一つとしてその根本的な部分から自分で積み上げたものなど無いのではないだろうか。そう思えて仕方がない。

 「なぜ?どうして?」と繰り返す子供に親はやがて手を焼き、そして言う。
「それははじめからそういうモノなの。大人になったらわかるから...。」
そんな説明じゃ到底納得出来っこない。不満を残しつつ子供は成長し、保留にされたままの問題はやがて忘れ去られる。その問題が再び意識にのぼるのは...そう、その人の子供が同じ様なことを問いかけてきたとき。
 その答えは難しすぎて子供には理解できないのか。説明するのに膨大な時間を要するのか。答えないのは、答えられないのは彼(彼女)が保留したまま、その問題から逃げ回っていたからじゃないんだろうか。そうやってポーズボタンを解除しないでおくのは本当に楽なのか。それはイエス、そしてまたノーだ。
 説明も理解もなく受け取った確信の持てない土台の上に、幾ら立派な建物を建てたとしても、少しの衝撃で壁はひび割れ、柱は傾く。あわててその場しのぎの応急処置を施したところで、あまり役には立たない。すべてをリセットして基礎工事からやり直した方が賢明だが、広げた風呂敷が大きければ大きいほど、建造物が高ければ高いほど、工事をやり直す踏ん切りはつきにくいだろう。キャンプ生活って手もあるが、あまり快適そうじゃないね。

 さまざまな常識とか慣習とかが、いかにもろく危ういモノかは時間と位置の軸を少しずらせば直ぐにわかるだろう。そして、今のあなたは違う時代、異なった地域の目から見れば実に理解しがたい非常識な人間だ。あの「教義」に洗脳された人々や「定説」とやらを疑いもしない連中を非難したり、嘲笑したりする権利は我々にはない。

 一つ一つの洗脳を自ら解いて行くしか道はない。その時、苦しみの末にたどり着いた答えは、別の意味で新たな自分自身による洗脳でもある。それだけは決して忘れてはならないが、それが間違っていても今度は大丈夫だ。なぜってそれは自分自身で導き出した答えだから。あやしそうなところは、きっと直ぐ見つかるはずだ。
 そんな私の洗脳を解く作業は、まだまだ始まったばかりでなかなか進んでいない。そんな中にもどうしても解くことの出来ない厄介な洗脳がある。
【私が、或いは全ての人が、この世に生まれてきたのには何か意味があり、今だ生きながらえているのには何か理由がある。】という洗脳。他者によってもたらされたモノか、自分で思いこんでいるのか。何ら理屈もなく、合理的な説明がつかないこいつを私はいまだ消し去ることが出来ずにいる。でも...、こいつだけは当分放っておいてもいいかな、なんて今は思っている。

 

 

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