野外科学の継承と日本の“げんき”づくり

情報工房概要

 1)ねがい:野外科学の継承と日本の“げんき”づくり

 ●野外科学との出会い

 野外科学との出会いは、1968年にさかのぼります。当時学生だったわたしは、70年代安保の学園紛争のなかで学生時代をすごしていました。
 自然豊かな山国・信州からはじめての都会の生活、カルチャーショックを受けていた上に、学園紛争によるロックアウトという異常な世界に翻弄される日々をおくっていました。なぜ一方的にイデオロギーの使徒にならねばならないのか。そんな疑問から、自らの生き方と考え方を築く自由はあるはずだという一点で、自分を支えて生きるのが精一杯でした。

 そんな状況のなかで、「移動大学」の開催を知りました。東京工業大学でも同様な紛争がおこり、川喜田二郎教授が、学園紛争の根本要因は現代文明がもつ環境公害・組織公害・精神公害にあると喝破され、新しい大学を求めて職を辞して取組まれた運動でした。
 1968年8月末からの2週間、信州黒姫高原での開催でした。「日本列島を教科書として」をスローガンに、3つの公害に対して地域のフィールドワークのなかから問題解決の道筋探しと人材養成をねらうものでした。「野外科学とKJ法」、それが移動大学の問題解決の方法論の柱でした。

 自ら考える原体験と方法論を体験したことは、わたしにとってはまさに救いの出会いだったのです。

 ●川喜田学門下の書生生活

 大学ではロックアウトの結果、授業はほぼ半分ほどしか受けられず、レポートの連続。もっときちんと勉強がしたい。そんな思いで就職活動にも身がはいらずにいたときに、川喜田先生から秘書兼研究員として声をかけていただき、門下生となりました。

 研究所入りに先立ち、「野外科学とKJ法」の基礎をもっと勉強しておこうと復帰前の1971年3月開催の沖縄移動大学に参加。その後4月から研究所に丸20年間勤務。「野外科学とKJ法」の習得を深めつつ、産業界をはじめ各界各層への普及に従事。まさに川喜田学門下の書生生活となりました。
 この間、1985年から1986年にまたがる1ヶ月間、川喜田学の母体となったネパール・ヒマラヤの奥地への技術協力と村落計画のための地域調査にも同行し、フィールドワークの薫陶も直接受ける機会に恵まれました。

 ●情報工房として実践展開

 研究所での20年間は、マネージメント業務と「野外科学とKJ法」の研究・研修業務が中心でしたが、20年を区切りに実践の道に入りました。1991年4月、情報工房を設立し、野外科学の実践的な展開を進めてきています。
 企業と行政の組織の“げんき”づくり支援、地域の“げんき”づくり支援、大学の“げんき”づくり支援の3つの分野で、人材育成と問題解決支援を行っています。

 ●野外科学が一層求められる時代

 時代は、すべての社会の枠組みが根底から問い直され、既成の理論ではなく現場からの新たな理論の構築が必要となっています。まさに野外科学が必要とされる時代がきています。
 このような経過のなかで、「野外科学とKJ法」を継承し、日本を“げんき”していきたいと願っています。

情報工房代表 山浦晴男

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