Engage Ring
Side‐B
サーーーー・・・・。

・・・水が弾ける音がする。
雨でも降っているのかしら・・・?
私は半覚醒した意識の中で朦朧と呟く。
何故か酷く頭が痛い。
私は暗い世界から解き放たれんと、
重たい瞼をゆっくりと開いてみる。
・・・ここは何処?

割れる様に痛む頭を押さえつつ上半身を起こす。
まるで記憶の無い、だが見慣れた部屋が視界に現れる。
ああ、そういう事か。

私はふぅ、と短く溜め息を吐いて頭痛が引くのを待つ。
私が布団の中で生まれたままの姿であるという事も、
場所が解れば自然と理解できる。
私はまたやってしまったのだ。
無意識下でのアバンチュール。
これでは友人に“雌”と陰口されても可笑しくない。

と、なるとあの雨音はシャワーの音。
男は未だいる。
私の気持ちが急激に重くなる。
下らない男で無ければ良いが。
私は枕元にあった煙草に火を点け、無気力にそう祈った。

しばらくして、シャワーの音が止む。
数瞬後に扉が開閉する音が聞こえ、
まだ若さの残る男が現れた。

年齢は私と同じ・・・か、少し下であろうか。
たるんでいない腹と、ややしまっている筋肉、
スマートな顔立ちに、優しそうな瞳。
私は少し救われた気持ちになったが、
最近このタイプの男と寝る機会が多いような気がする。
どこか優しげで、頼りない。

彼は初めて気がついたかの様に私を見つけると、
やや硬い微笑みを浮かべる。

「起こした?」

どうして男は何時もこう聞く言葉が同じなのだろうか。
私は思わず軽蔑する様に瞳を細めるが、
すぐに苦笑してそれを誤魔化す。
別に彼が悪い訳ではない。
特別な返答を待っている私が悪いのだ。

その問いには答えず、私は煙草を持ち上げ、素っ気無く言う。

「煙草、もらったわよ」

彼も私の返答など待っていなかったのか。
私のその言葉に苦笑し、すぐに返答する。

「構わないさ」

そう言うと彼はソファーに身を沈め、
ゆっくりと煙草を吸い出した。
その後、沈黙が続く。

私はさてどうしたものかと悩んでいた。
何せ記憶がまるで無いのだから、
彼との関係も全く思い出せない。
でも知らない顔であるという事は、
きっと行きずりの男であろうとは思っていた。
だが世の中に何と勘違いした男達が多い事か。
一度寝ただけでその女が自分の物だと錯覚する男など、
この世の中には掃いて捨てる程居る。
彼がそういう男で無い事を、私は願った。

私がそれ以上何も言わずに煙草を吸い続けていたからであろうか。
彼は思い出したかの様に服を身に着けだした。
そこに私との会話を避けようとする意図が見て取れた。
私はもしかして・・・と思い、彼に声をかける事にした。

「ねぇ」

ちょっと素っ気無さすぎただろうか。
心の中で少し反省する。

「うん?」

だが男は別段気にした風も無く、
ベルトを締めながら自然に返事をする。
私はそこでいかにも何か考えているかの様に顔を作り、
やがて頭に手を当てて投げやりに告白してみせる。

「実は全然覚えていないの」

そして私は彼の顔を覗き込む。
私の勘が当たっているかどうか、確認する為に。

彼は少しの間しかめっ面をしていた。
もしかして怒らせたかな・・・と少し不安だったが、
彼の顔が子供っぽく悪びれた表情に変わった時、
私は確信していた。

「実は、僕もなんだ」

やっぱり。
私は自分の勘が当たってしまった事にも複雑だったが、
それ以上に素直に認める彼の人間性に驚いた。
こういう時、大抵の男は否定したり怒鳴ったり誤魔化すものなのに。
それに、彼の悪戯っ子の様な純朴な笑顔。
私は思わず苦笑していた。

「変なものね」

私がそう同感を求める様に言うと、
彼もつられた様に苦笑して答える。

「そうだね」

でも私達が肉体を求め合ったのは解っていた。
汗ばむ肢体、べとつく肌、ぼさぼさの髪・・・。
でも、一夜だけのアバンチュールの後に、
こうしてお互い苦笑している事など無かった。
行為さえ済めば、男は冷たくなり無関係を装う。
愛の言葉さえかけず、時には悪辣な言葉を吐く男もいる。

苦笑いとは言え、こんな風に心から笑えたのは何時の日か。
古いアルバムをめくる時の様に、私は遠い瞳をして思い出す。
・・・そしてそれはとても昔の事の様に思えてしまう。

「そのイヤリング・・・」

唐突に男がそう呟いた。

そう言われて初めて私はそれをいじっていた事を知った。
思わず狼狽し、苦笑いをして誤魔化そうとする。
でも、彼の優しそうな瞳はそれを見透かしているかの様に冷静で、
私は行き場を失った手をゆっくりと膝元に持って行く。

「子供っぽいって笑う?」

さすがに顔は赤くなっていないだろうが、
私はすごく恥ずかしかった。
何故なら、このイヤリングは私の内面と等しいから。

彼は、私のその問いに間髪を入れずに答えた。

「可愛いよ」

そして彼はにこっと笑う。
私はそう言われて幾分か救われた。
“似合っている”と言われる事は今の私を否定するという事。
でも、正面切って可愛いと言われるのは、
この歳になるとさすがに少し照れる。

それより、このイヤリングに気がついた事や、
瞬間的なお世辞等、私は彼に少し興味を持った。
少し幼さの残るその顔の下に、彼はいくつの自分を隠しているのだろう。
世渡りの下手な青年のような気もすれば、天性の女殺しの様な気もする。

「でもこれ、本当は指輪なのよ」

私は少し悲しそうに彼に言う。
何故こんな事を話す気になったのか、自分でも解らない。
この指輪の事を話した相手は、今までにも数人いた。
そしてその男達は“君には似合わない、僕が買ってあげる”
皆が皆そう言った。

「・・・そうだと思った」

ところが彼はすました笑顔でこう言うのだ。

「何でそう思ったの?」

私は、自分の驚きを隠さずに彼に言う。

「いや、何と無く」

それだけ言うと彼はソファーから立ち上がり、
冷蔵庫からビールを一本取り出して一口飲んだ。

「不思議ね」

私は本当に不思議で、そう呟く様に言った。
イヤリングを指輪だと言い当てた事も不思議だったが、
彼自身も不思議だった。
まるで雲の様に捉え様が無く、自由気侭。
そんな言葉がピッタリ彼には合っている。

「そうだね」

やや遅れて彼は苦笑し、それだけ言うと、
再びソファーに座って一人ビールを飲みだす。
私は自然と彼の横顔を見つめている自分に気がついた。
何故こうも胸が騒ぐのか。
私は自分を抑えるのに精一杯だった。

やがて静かな沈黙が流れる。
彼はビールを不味そうに飲みきると、
ゆっくりと立ち上がり、私に言う。

「部屋代は払ってあるから。もう少しゆっくりしていくと良い」

無感情にそう紡ぐ言葉に、私の胸が少し痛む。

「どうもご親切に」

私の心理など悟らせない。
私も無感情にそう答える。

「じゃあ」

彼は一層無感情にそう言った。

「ん」

私も劣らずそう無感情に答える。

男は今にも部屋から出ようとしていた。
駄目。行かないで。もっと話をしましょう?
そんな言葉が浮かんでは消える。

そしてドアのノブに彼の手が触れた瞬間、
私は思わず彼の背中に言葉を発していた。

「ねぇ」

そうぽつり、呟く様に言った。

「うん?」

男がドアに手をかけたまま、ゆっくりとこちらに振り向く。
その顔を見て私は愕然とした。
そこには一切の親しみは無く、感情さえ皆無。
私はハッキリと自分が拒絶されている事が解った。

「・・・何でもないわ」

私は押し殺す様にそう言った。

“貴方の事、もっと知りたいわ”

そんな言葉は宙に消えた。
何だかとても寂しかった。
何時から自分はこんな人間になったのか。
何だかとても寂しかった。

「・・・そう」

少し困った顔をして彼はそう言った。
ズルイ人。
自分がそう言うように仕向けた癖に、
僕は関係無いとでも言いたいの?

やがて少しの間を置き、彼は微笑んだ。

「さようなら」

そして私は再び驚いた。
こんな優しい別れを告げられたのは、初めてだった。
それは思わずこちらまで優しく微笑んでしまう程のもの。
私は彼によって作られた、そんな優しい笑顔のまま、言葉を返す。

「さようなら」


彼が去った後も、私はしばらくベッドの上に居た。
迫り来る喪失感に、何時の間にか私は声を上げて泣いていた。
何故彼の存在がこれほどまでに私を責め立てるのか。

そして私は気付いた。

この喪失感に似た感情を、あの時私は抱いたでは無いか。
子供の頃の口約束。
彼がこのイヤリングに気がついた訳。
ああ、彼は覚えていてくれたのだ。

それでも彼は何も言わなかった。
解っていたのね、お互いがもう戻れないという事を。
解っていたのね、私達は汚れてしまったという事を。

私はイヤリングを外すと、閉めきられた窓を開け、
そこからEngageRingを投げ捨てた。

さようなら、素敵な過去。
私は彼の思いを尊重したい。

窓からは眩し過ぎる程の朝日が射し込んでくる。
週末が終わり、何も変わらない日常が始まろうとしている。