サーーー・・・・。 熱くも冷たくも無い水飛沫が、責める様に僕の身体を叩き、流れ落ちていく。 それらは滑らかな流線を描くと、銀色の排水溝へと吸い込まれて行った。 僕はいかにも安そうなラブホテルのバスルームで、一人シャワーを使っていた。 絡みつきすえた匂いのする汗を身体から洗い流し終えると、 そのままシャワーの温度を一気に下げる。 ザーーー・・・・。 先程よりも勢いの増したその飛沫の中に、僕は頭から突っ込んだ。 それは恐ろしく冷たかったが、ガンガン痛む頭は そんな事で治るはずもなかった。 やれやれ、どうやら僕は酔っ払ってこんな所に来たらしい。 目覚めた時の僕の心理状態がどんなものであったか、 それは容易に察してもらえるだろう。 たまにある事ではあるのだが、その度に軽い自己嫌悪に陥る。 起きた時に知らない女の顔が横にあるというのは、 やはり気持ちの良いものではない。 その後の展開を考えると、気が滅入るくらいだ。 そしてそれは今回も例外ではない。 どうしてこんな事になったか、段階がまるで思い出せない。 一人静かなバーで気紛れに飲んでいた事だけは覚えているのだが。 僕は洗面場で身体を拭き、トランクスとGパンを履く。 部屋の中は相変わらず実に機能的にできている。 勿論その為だけにここに来るのだから、それで当然なのだが。 これではムードも何も無いだろうな、と僕はふと思ったが、 そういう段階すらすっ飛ばしてここに居る人間が言えた義理では無いだろう。 相も変わらずクーラーがゴーという音を立てて稼動している。 身体を冷ますよりも僕の酔いを覚まして欲しかった。 僕がベッドに戻ると、女はベッドの上で煙草を吸っていた。 上半身を起こし、片手で頭を押さえつつ、 そう静かに煙草を吸っている姿は何処か似合っていた。 彼女の歳は26・7だろうか。 肌は白く、まだ若々しい感を受ける。 化粧は剥げていたが、素の表情を見ても幻滅する訳でも無い。 どちらかというと綺麗という部類に入るのではないか。 まぁ、僕が化粧していた顔を覚えていないだけなのだが。 彼女はその黒く長い髪を邪魔臭そうに後ろにかき上げ、 ただ突っ立っているままの僕に気がついた。 そして僕の顔を見る。 一瞬僕は焦ったが、そんな片鱗も見せずに微笑んだ。 「起こした?」 その言葉に彼女は瞳をほそめ、苦笑する。 そしてYESともNOとも言わない変わりに素っ気無くこう言った。 「煙草、もらったわよ」 僕は少し苦笑して答える。 「構わないさ」 そう言って僕はソファーの上に座り、自分も煙草に火を点けた。 煙草の煙が天井に舞い続ける間、沈黙は守られる。 自分の言葉を表さない為に、僕は煙草を吸い出したのかも知れない。 最近何となくそう思う。 僕は彼女の身体を横目でチラッと盗み見た。 薄い布団で隠されていても彼女の身体は貧相とは思えなかった。 あの肢体をさんざん自分の手や唇や舌が這ったのだろうに、 僕ときたらまるで憶えていやしない。 本当にそういう行為に至ったのだろうかと訝しがったが、 証拠品はそこらで見つかった。言い訳はできない。 僕は複雑な気分でもう一本の煙草に火を点けた。 彼女はそれ以上何も言わずに煙草を吸い続けていたので、 僕はモソモソと服を着だした。 何か面倒な事になるかとも思ったが、 どうやらそういった事を言い出す雰囲気は無い。 彼女も僕が何か言い出さないか不安になっているのだろうか? だとしたらさっさと部屋を出て行った方が良い。 会話もできるだけ少なく。 素っ気無い態度で関係を断つ事は僕には苦手だったから。 だが彼女は煙草を吸う手を止め、ふと僕に声をかけてきた。 相変わらず素っ気無い声で。 「ねぇ」 沈黙が続く空気が重かったのか。 彼女の声はそんな意図が見てとれた。 「うん?」 僕はベルトをカチャカチャと締めながら、彼女を見ずにそう答える。 彼女は少し目を泳がせ、何か言葉を捜していた様だが、 やがて諦めたのか頭に手を当てて投げやりに言った。 「実は全然覚えていないの」 そう言った後、彼女は僕の顔を下から覗き込む様に見た。 僕がどういう反応をするか伺っているのだろう。 僕はどう答えたものかと数瞬しかめっ面で考えていたが、 やがて悪戯っぽく苦笑して、正直に彼女に答える事にした。 「実は、僕もなんだ」 僕のその答えに彼女は少し唖然としていたが、 その後静かに苦笑した。 「変なものね」 そう同感を求める様に言う彼女の言葉に、僕も苦笑して答える。 「そうだね」 だが二人が肉体を求め合ったのは確実だ。 例えそれが意識下に無くても。 行為をし終えた後で見知らぬ者同士がこうして笑い合っているとは、 何とも可笑しな話である。 僕は思わず苦笑してしまう。 朝起きたら隣には誰も居ないし書置きも無い。 そんな事はザラなのに。 僕が不思議な感情を抱きながら彼女の方を見ると、 ふと、彼女のいじっているイヤリングに気がついた。 それはコスモスをあしらった装飾がしてあるが、 100円もしない玩具であるとはすぐに見て取れた。 「その、イヤリング・・・?」 思わず僕の口からそう零れる。 そう言われて初めてイヤリングをいじっていた事に気がついたのか、 彼女は誤魔化す様に苦笑すると、いじっていた手を自分の膝の上に持って行く。 「子供っぽいって笑う?」 何か恥ずかしい物を見られたかの様に彼女は照れ、 僕にそう聞いた。 「いや。可愛いよ」 僕は間髪入れずにそうニコッと笑う。 “似合ってるよ”とは言わない。 実際、そのイヤリングは彼女の歳には相応しく無い様にも思えたからだ。 だがそれは本当にとても可愛く、大人びた雰囲気を持つ彼女に、 一つの絶妙なアクセントをつけていた。 彼女を、少しスレた女性にするブレーキになっているというか・・・ とにかく、そんな印象を僕に与えた。 彼女は僕の誉め言葉に、少し照れた様子を見せる。 その表情は先程までとはまるで別人のような、 そんな少女のようなあどけない笑顔。 僕はそんな彼女をからかう様なちょっと悪戯っぽい瞳で見つめる。 「でもこれ、本当は・・・」 僕のその瞳に気付いたのか、彼女は唐突にそう言って口を閉ざした。 彼女のその言い方は何故か寂しげだった。 苦笑してそううつむく顔は、何故か守ってあげたくなる。 何故だろう。 そしてその後彼女は僕の方に柔らかく微笑む。 言葉を探しているのだろうか。 それとも僕がどう反応するか興味があったのだろか? 「・・・指輪・・・かな」 だが僕は、実にすました笑顔でそう言った。 彼女の期待に添えなくて、申し訳無い。 「・・・何でそう思ったの?」 彼女は予想通り少しビックリした様子で、僕にそう問う。 僕は少し苦笑して、彼女に答える。 「いや、何と無く」 それだけ言うと、僕は立ち上がり冷蔵庫のある方へ歩く。 中からビールを取り出すと、その缶のフタを開ける。 「不思議、ね・・・」 彼女は未だ釈然としない様子でそう呟いた。 見るとベッドの上で已然裸の体をフトンで隠したまま、 膝の上に顔を乗せ、何かを思い出す様に僕の方を見ている。 その姿はとても魅力的で僕の心を鷲掴みにする。 「・・・そうだね」 だが僕は努めて冷静に、だがやや遅れた返事をし、 ふっと苦笑して彼女の視線から顔を逸らした。 寂しげな彼女の姿はとても魅力的だ。 だがその雰囲気を持つという事は、それ相応の傷を負っているという事。 そう思うと僕は何故かやりきれない。 ビールを飲む。空っぽの胃の中をビールが通り過ぎる。 焼ける様なその感覚を、僕は美味そうな表情で誤魔化した。 本当は、酷く不味かった。 僕がそれ以上何も言わないので、再び沈黙が流れた。 思えばこんな状態で会話が弾む事も可笑しな話なのだ。 僕は不味いビールを無理矢理飲みきると、ゆっくりと立ち上がる。 「部屋代は払っとくから。もう少しゆっくりして行くと良い」 僕は努めて無感情にそう言った。 「どうもご親切に」 彼女も素っ気無くそう返す。 「じゃあ」 無感情に。 「ん」 素っ気無く。 僕は部屋から出ようとした。 心中の複雑な思いを胸に秘めていたのを認めよう。 ただ、一刻も早く外に出たかった。 「ねぇ」 だがそんな僕の背中に、彼女はポツリと、呟く様に言った。 「うん?」 僕はドアに手をかけたまま、ゆっくりと振り向いた。 顔は、一切の親しみを消した、無表情な顔で。 「・・・何でもないわ」 そんな僕の顔を見たのか、彼女は押し殺す様にそう呟いた。 顔は何処か寂しそうなのは・・・きっと気のせいだ。 「・・・そう」 僕は少し困った様な顔で彼女にそう言う。 それ以上は何も言わない。いや、言えない。 そして間を置いて僕は微笑んだ。 「さようなら」 その言葉に、彼女も優しい微笑みで答えてくれた。 「さようなら」 パタン、とドアを閉め、そのドアに背を預けながら、 僕は一つ軽く溜め息を吐いた。 慣れない事はするものではない。 胃がムカツク。飲みすぎだ。 心臓が飛び跳ねている。くそっ。 先程のビールのせいだ。 そういう事にしておこう。 そのまま僕はふらついた足で廊下を歩くと、カウンターで金を払った。 そしてホテルの外に出ると、嫌に眩しい朝日に出会う。 「・・・眩し・・・。」 そう呟いて片手を上げ、その光を遮る。 きっとあのリングに込められた意味はこうだ。 小さい頃に彼女は家を引っ越す事になってしまった。 その時、隣の家の仲の良い男の子とこんな約束をしたのだろう。 『この二つの指輪を婚約指輪だと思って、 ずっと身につけていましょう。 そうすればお互い大人になった時出会っても、 私は貴方だと解るし、貴方は私だと解るわ』 涙を堪え気丈にもそう言う少女と、 別れの悲しみに泣いてばかりの少年・・・。 僕はフッと苦笑して歩きだし、 ポケットからボロアパートの鍵を取り出す。 太陽に照り輝いてキーホルダーがチャラ、と揺れる。 その先にはコスモスをあしらった、 安っぽい玩具の指輪が光っていた。 |