5月28日
理解と不理解、現実と虚構。相対する事象は、けれど紙一重の所で
その存在を共有している。全ての事象が酷く曖昧になってしまった
この世界で、僕らは何を見て進めば良いのか。
自ら辿った軌跡を振り返り、方向修正するのも手だろう。
先人の軌跡を参考にし、その道を歩むのも手だろう。
全ての反応が期待ハズレだったとしても、
なお歩むのが人生か。
5月27日
我侭と愛を一緒にしてはいけない。
最近、つとに昔の自分は「責任」という言葉を避けてきた気がする。
あまりにも、自分の行動に「責任感」というものが欠如していた。
無論、責任感とは重い存在である。誰もがそのプレッシャーに
耐えられる訳ではないだろう。
そして、受動的な人間が形成されて行く。
自分の言動、行動には責任を持ってもらいたいと思うようになった。
やれるだけやる、ではない。やらなければいけない事は、
きちんとやらねばならぬ。うむ、勉強しよ。
5月26日
人間の出会いなんて一期一会だけれど、再び出会えるのも
また人間だ。縁が切れずに仲良くやって行けるのは良い事である。
高校時代のクラスメイトから、MAILが来た。
一人暮しながらも彼等はきっと頑張っている事だろう。
自分の夢に突き進め!俺は半歩送れてついて行く!(苦笑)
5月25日
多くの人間は、自分とは違うものを遠ざける・・・・。
それを排他と言うが、最近の日本は顕著にこれが現れている。
異分子を排他する為に起こる悪質なイジメに始まり、
自己存在を他人と同一になる事で満足するブームの流行り廃り。
だが、今回のテーマは別にそういう事を言いたいのではない。
現在、国際社会だと言って騒がれているが、
そんな排他的な国民が異文化を理解する事が
果たして可能なのだろうか?
国際社会で必要な事は、相手の色に染まる事ではなく、
相手をより深く理解する事ではないか。
その際に生じる文化の差で、いちいち嫌悪感を顕わにしては、
日本は再び封建社会、鎖国時代となるだろう。
日本人は器用なだけに、相手の国に溶け込むのも早いが、
真の国際社会を生きるには、「染まる」よりも「光る」事の方が
大事ではないかと思う。
5月24日
アイデンティティを確立している人は強い。
それを他人に見出している人はより強い。
自己の中にだけしか見出せていない人は脆い。
頑固な人は強い。優柔不断な人は弱い。
だが僕は、自分らしさを捨ててまで強くあれとは言いたくない。
譲れない事の為に、自分らしさを捨てる事もある。
・・・・人間は、自分一人では生きていない。
他人を、受け入れてみよう。
そこから何かが始まるだろうから。
5月23日
人間の決断を決めるのは理想と現実のどちらかでは無いだろうか。
つまり、アイディアリストは自分の意思を決断に反映させ、
リアリストは現在の状況を決断に反映させると思う。
それほど意識して両者の差を観察した事は無いのだが、
最近酷くその差が解るようになってきた。
どっちが良い、という事は勿論言えないのだが、
理想家の人は大変だなぁ、と思ってしまう。
だからと言って僕がリアリストと言うわけではない。
今、理想と現実の中で必死に足掻いている所だ。
5月22日
ひっさしぶりに大地を蹴った。
つまり、走ったって事。
爽快だった。風にはなれなかったものの、
風を切る事は出来た。
自分の脚が、久しぶりに熱を帯びた。
再び、走れる事に、感謝する。
5月21日
心の、奥底の、わだかまり。
人に言えば、きっと楽なのに、言えないでいる。
相手に悪いと、思っちゃうよね。
でも大丈夫、僕は話を聞いてあげる。
何かあったなら、言ってくれないか?
僕も、何か話したいから。
5月20日
新聞は三面記事が面白いと言われるが、それは事実だろう。
一面記事にある政治記事は、勉強にはなるが面白く無い。
そこにはニュースを見れば解るような事が書かれているし、
無責任な大学教授のコメントなど、見ていて腹が立つだけだ。
三面記事には、家庭的な事、歴史的発見、芸術家のコメント、
どれも興味引かれる事が盛り沢山に書かれている。
人間にとって、雑学がどれだけ役に立つかは言わずもがなである。
三面記事は、幅広い人間の内面を育てるのに、必要だと思われる。
5月19日
そういえばサマータイム制導入とか言ってますけど、
どうも日本政府というのは「やろうやろう」と言うだけで、
やる意味、やる結果、やる過程を頭に入れていない様ですね。
やれば良いというものでは無いでしょう。
ガイドラインも、通った結果、今後日本がどう扱われるか・・・・。
想像に難くないのに、何故政府は通そうとするのでしょう。
そんなに世界に認められるのが大事なのでしょうか。
国際社会と言いますが、自分達の文化を見失ってまで、
アメリカに殉ずる必要があるのでしょうか。
5月18日
ネタに詰まる時ほど、「あぁマトモな日記にすれば良かった…。」
と思うものですが、哲学とは小さな石ころにも存在するわけで、
本当はネタは溢れる程在る筈なのです。
ただ、哲学には往々として答えが無い。
何故?という疑問は出来るけれどもそれで止まる。
そこへの思想的アプローチが大切なのでしょうが、
それが出来たら本当の哲学者ですしね。
人間が考えると言う事、これは何故かと考えるに、
「理解しなければ不安だから」と提示するしかない僕は、
まだまだアマチュア哲学者です。
5月17日
国語というものは、他の教科に比べ、実に教える事の
難しい教科だと言う事を、今更ながらに再確認しました。
他の教科に比べて、圧倒的に国語は読解力を必要とします。
読解力と言うものはそうそう簡単に付く物ではなく、
それこそ日々の読書量が左右しそうなものですが、
それを生徒に教える事は、生半可な努力ではムリでしょう。
それに、国語には元来決められた読解など存在せず、
自由に読み取れてしまう所にも難しさはあります。
勿論、国語を勉強して行くうちにそういう難しさが
楽しさに変わっていくのですが、ね。
やはり、自分は「受験国語」ではなく、「面白い国語」を
教えたいなァ、と思いました。(その為には勉強だぁ・・・・)
5月16日
今日で、この世に生を受けてから19年が経ちました・・・・。
降りかえって、喜びや悲しみ色々あったけど、
圧倒的に喜びがあった気がして、反省した。
些細な幸せを喜べなかった自分はイカンね。
また来年も頑張って生きよう。
5月15日
人が悩んでいるのを助けてくれようとする友人というのは
実に尊い存在ですよね。
僕は、基本的に人を喜ばせたいと考える人間です。
何時から、そんなスタンスを持ったかと考えるに、
どうも自分は極度にコンプレックスを持っていて、
自分と言う人間を卑下していたんです。
実際、良いところや評価できるところなんて考えつかなかった。
そんな人間が喜びを見つけるのは、他人にしかなかったんですね。
他人第一、という考えがずっと僕の中にあったんですが、
どうもそれは問題なんだな、というのが最近解りました。
5月14日
人間と言うのは面白いもので、下はあんなに嬉しそうなのに、
今日の日記はハッキリ言って暗いです。
まぁBBSにも書きましたが、昨日泣きました。
本人、悲しかったのか悔しかったのかあまり解っていませんが、
悔しかったのが多分にあると思います。
前だったら「そうだね」と逃げて、自分が傷つかないように
感情がなっていたんですが、今日は言葉がスッと胸に刺さりました。
なんでこんなに悲しくって悔しいんだろうと、悩みました。
それで、自分にまともな感情が戻りつつある事を知りました。
僕は自分に対しプライドを持つようになっていたし、
自分に対し自信も持っていたんだと思います。
このプライドと自信なんて以前の僕には考えられない言葉です。
でも、突き詰めるとそうだったんですね。
僕の胸は、何時の間にか人並みの感情を持つようになっていた。
だから、今までは刺さらなかった部分が刺さったんでしょう。
「打たれ弱い」と言われる僕が、やっと「打たれる」事を知ったわけです。
下の日記にも書いてあるけれど、これを真面目に考える良い機会だと
思う事にします。ネガティブな精神構造でもポジティブに行かないとね。
取る行為が、「逃避」と受けとめられない様に、真面目に考えます。
・・・・しかし、泣いたのなんて小学校低学年以来かな?(苦笑)
5月13日
人が、夢に向かって努力している姿というのは、
何とも言えず素敵なものです。
いえ、むしろ自分の中で決心した事に対し僕は賞賛したい。
壁はきっと高いだろうけれど、それを覚悟して乗り越えようとする姿勢。
大丈夫、そんな人には側で支えてくれる人達がきっと居ます。
そんな人達の手を借りる事を嫌う人もいるだろうけど、
その存在だけで救われるものですよね。
僕も、自分に正直に生きてみようかなと、思いました。
浪人生というものは、再び夢に向かう事のできる機会を与えられた
人達なわけですから、本当は頑張らなければいけないんですよね。
しかし、昨日は本当に嬉しかったなぁ・・・・。
5月12日
「我唯足知」。昔の人は立派ですね。こんな言葉現代人が思いつきますか?
今の世の中は足る事を知らない人達ばかりです。勿論、僕を含めて。
我々は、自分が置かれている状況を0(ZERO)と考えます。
そして、外部からの情報に応じて+や‐を付けていく訳です。
そんな我々は、「昔はこうだった」とか言われても、
「それは昔の話でしょ?」と平気で返してしまう。
また、欲求を満足させても、その状況に慣れるうちに
再び自分の環境を0と考えるから、他の何かに欲求をする。
まさに「我唯足るを知らず」となる訳です。
孔子の教えの一つに「全てを食らう怪物」が出てきます。
その怪物は世界の全てを食らい尽くした後、
結局自分までも食ってしまう、というお話です。
我々も、そうならないようにしたいものです。
5月11日
しかし教育問題として、現在親が本当に問題らしいですね。
自分の教育を棚に上げて、教師・学校に子供の教育をしてもらおうとする。
勿論、学校と言うのはある程度そういうところが必要な訳ですが、
子供を叱り、取った行動の責任を取らせる、というのは元来親の仕事でしょう?
昔は、子供を見れば親がどういうシツケをしていたか解ると言われてましたが、
学級崩壊で子供が荒れている現在、親が何をしているかが、解りますね。
子供は自分のオモチャでは無いし、宝だと言って鍵をかけるものでもない。
ノビノビ育てさせても、手放しではいけません。
ノビノビ育てる意味は経験を多く積ませると言う意味であり、
「何をしたら駄目だ」というのを教えさせるのが本来の意味ではないでしょうか。
5月10日
朝○新聞に学級崩壊の事が久しぶりに大きく載っていましたが、
やはり現場に立っている教師の方が現実味を帯びていますす。
どれだけ立派な人間が言う事でも、現実に適応できなければ
それは机上の空論となってしまうわけですから、
現場の教師達の口ではない話を、もっと聞きたいと思いました。
しかしこうやって色々と学級崩壊の話を見たり聞いたりしていると、
情け無い親がなんと多い事でしょう。
過保護か、無保護か、顕著に親のスタンスが別れているんですよね。
駅に子供を置き去りにする親も増えてきたし、
日本もアメリカみたいになるのでしょうかね・・・・。
5月9日
時間って戻らないから大事で、作れないから大切なんですよね。
本当は時間というのはあまりにも広大に存在するのに、
「1日」を24時間としてしまった人間は、それを少ないと感じる。
そして何をしていたかに価値を求めてしまう人間は、
何もしなかった日を無駄な1日と考えてしまうんでしょう。
問題は、「何かした」では無く、自分にとって「有意義」な
時間を過ごす事が大事なのでしょう。
5月8日
ボクほど一人称及び話し方が確立されていない人間も珍しいでしょう。
日常とNETで使い分ける人は結構多いですが、
ボクの場合NETでさえあやふやになっています。
思うに、これは自分自身の性格を把握していないからだと思うんです。
別に、今流行りの解離性人格者だと言いたいわけじゃないんです。
ただ、この歳になって自分の生き方や人格を確立できていないというのは、
恥ずかしい話だと思うんですよね・・・・。
5月7日
何かの本で、「嘘は傷つかないで済む」という言葉があった。
ブー、残念ハズレ。答えは「嘘は一時的に傷つかないで済む」。
そう、つまり嘘は最終的には傷ついてしまうものなのだ。
嘘吐き暦十何年の僕が言っているのだから間違いは無い。
よく、「バレなければそれは嘘ではない」というような事を、
知ったかぶりの三流詐欺師は言っているよね。
確かに、その事については嘘だとバレなければそれは「事実」と成り得るが、
問題は自分にいってしまう。そう、嘘吐きな自分に。
まず嘘を吐き続けると、嘘を吐く事に対し罪悪感が消えてくる。
そして何時の間にか、ポロ、ポロ、と嘘を吐いていく。
無意識的に出てしまうようになってくるのだね。
そうなったら、もう人から信用されるのは諦めた方が良い。
一回、“嘘”という甘い香水の香りを覚えたら、
もう身につけずにはいられなくなるからね。
どうか、誠実な生き方を。
5月6日
男女間に友情は成立するか、という永遠のテーマがありますね。
それは状況にもよるけれど、僕は成立しないと思います。
人間の好意というものは実に複雑化されていて、
同性間での深すぎる好意は危険な愛だと見られ、
親子間での深すぎる好意は慈愛だと思われ、
異性間での深すぎる好意は愛だ、と言われます。
そもそも本能的な感情なのに、それが倫理観やなにやらで変わってしまい、
今みたいに愛情が多数、区別されてしまったんですね。
と言う事で、何が言いたかったかと言うと、
同性同士の好意より、異性同士の好意の方が、
その気になるんじゃないか、という事です。
どちらかが意識してしまったら、もう“友人”として
付き合ってはいけなくなるものでしょうし。
5月5日
哲学的な問題として、子供がよく「何故?」と問う事がある。
「何故木の葉は舞うの?」と子供が出した問いに、
母親はきっと「風が吹くからよ。」と答えるだろう。
だが子供はきっと続けて、「どうして風は吹くの?」と問うだろう。
そして多くの母親は、解らないと言うか、怒り出し誤魔化すだろう。
この、WhyからHow、そしてHowへと無限に続く事が、
哲学ではないかと僕は思う。
だがそこはあまりに深い闇の底であり、容易に答えが出るものではない。
その為に、学術的アプローチが必要なのであり、センスも重要なわけだ。
哲学、と聞くと一見難しく考えてしまうが、ようは、
子供の頃に答えてもらえなかった事を自分で考えるという事では無いだろうか。
5月4日
GWは無きに等しかった・・・・。非日常的ではあったが、如何せん
怠惰に時間を過ごした気がするのぅ・・・・。
普段あまりにも時間通りに生活しているから、
反動がきたのだろうか・・・・。
むぅ、徒然なるままに過ごす日々も、悪くは無いが、
上手く使わないと損であると思うのは貧乏性か。
5月3日
真実の言葉というものがあるにしても、人に届くとは限らない。
真実の正義があるにしても、現実で通用するとは限らない。
真実の悪があるとしても、現実で裁かれるとは限らない。
ならば、真実とはなんなのだ。
現実で左右されるような真実とは、薄氷のようなものか?
誰もが探す真実の光。
圧倒的な闇にも輝く事ができれば、それを真実と言うのかもしれない。
5月2日
心理学やら教育学やら哲学書やら、最近結構読んでいます。
特に心理学の本は色々興味深い事象が書かれていますね。
どうやら心理学の本によると、僕の行動の殆どが、
「偽称」なんだそうです。いやぁ照れるなァ(汗)。
貧乏ゆすりに始まって腕を組む、鼻を掻く・・・・。
どれも詐欺師特有の行動だそうです。(泣けるね・・・・)
まぁ自分の中で“俺は嘘吐きだ!”というのは解っているから、
そういう行動を押さえ、心象を良くする術さえ心得ているし・・・・。
・・・・この日記を読んでくれた人達に、「墓穴掘ってるよね」と
よく言われますが、その通りです。(涙)
5月1日
五月でし。GWはいかがお過ごしですかな?
浪人生たる私は遊び暮らしております。(オヒ)
休日にするも良し、遊ぶも良し。
時間を無駄にするのだけは止めましょう。
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