雨粒と 古いピアノと

 時として一瞬で物語が浮かぶことがある。敬愛してやまないサイトの文章が体にしみ込むことがある。どうかこんな出来心を許して頂きたい。今から語られる文章は独立した話としては面白くもないはずである。もしあなたがお暇なら Frozen Rain Drop に目を通してからお読みいただきたい。まあ、ある種のラブレターかもしれない。


 誰も知らない秘密の場所にとても小さなバーがあった。黒で統一された薄暗い洞窟のような場所。そのバーの隅には、いつのころからかピアノが置かれていた。古ぼけたアップライトピアノ。長い年月を物語る傷もあちこちに見える。このバーに似合うとは言い難い茶色の年代物。狭い空間をさらに狭くするだけの存在理由。調律がされているのか、いないのか...、実は誰も知らない。なぜかって弾かれたためしがないから...。いや、誰も聞いたためしがいないから...。オーナーでもあるバーテンダーの女性は「なぜピアノが...」なんて質問にまともに答えたことがない。だから皆その質問が無意味だと思いこんでいた。答えられることのない質問は忘れさられる運命にある。それは世間の悲しき習性ではあるのだが...。

 カウンターだけのその店は、それでも細々と飲んだくれを生産し続けていた。常連、気まぐれ、通りすがり。安くてうまいだけが2度目の来店を促す理由でもあるまい。しかしその理由を説明できる常連もまた少ない。
 最近、物好きの中に新しい背中があった。中年というにはそろそろ語弊があるほどの年頃だろうか。さりとてそれなりの地位を築いてきたというオーラも出さない...冴えない背中。くすんだ茶色のジャケットにくたびれたネクタイ...。ほとんど喋りもせずジントニックを2、3杯。きっと気取ったカクテルなど、ほとんど知らないのだろう。ピアノと反対側の端のストゥールが彼の指定席である。いつの間にか座り、いつの間にかいなくなる。存在感はほとんどない、いい意味でも悪い意味でも。彼が現れたことに気付くのは一瞥でジントニックを作り始めるバーテンダー女史だけかもしれない。

 静かなジャズに霞むはずの店にも時として騒がしい夜もある。数人の若者が酔ってしきりに女史に話しかけている。
「ねえ、ピアノは弾かないの?何か弾いてよ。ねえ...」
笑うのでもなく怒るのでもなく、気の利いたジョークで逃げるでもない。ほんの少し困ったような表情を眉間に残しながら、くすんだジャケットの男のための2杯目のジントニックづくりに忙しいフリで嵐が通り過ぎるのを待つこと。それが彼女のやり方だ。そんな風にしか存在価値のない猫背の男が珍しく今夜は口を開いた。
「ピアノは弾かないのですか...。弾いて頂けませんか...。もしよかったら...。」
意外な言葉に彼女の手が止まった。
「妻の...、いや、記念日なんです...。いや、もしよかったらでいいんですが...。」
弱々しい声が一瞬でビル・エバンスのピアノにかき消される。しかし彼女には聞こえてしまったらしい。いや若者にも気配として届いたのだろうか。彼らも急に静かになり、ビルの狂気の「枯葉」がその空間の魔性を浮き上がらせた。
 ジントニックを彼の前に置く手は次にアンプのボリュームに向かっていた。一段と小さくなったジャズ。振り向きざまの何か問いたげな視線に交わることはない視線が空間を泳ぐ...。期待してはいなかった容認...。口にしてしまった後悔...。引っ込みがつかない弱気な声...。
「...イマジンを...。亡くなった妻が好きだったものですから...。」
返事のかわりにボリュームは遂に完全に絞られてしまった。呆然の暗闇が彼を包み込んでいた。
 気が付くと彼女はピアノの前にいた。探りを入れながらのメロディーが程良いフェイク感をかもし出していた。 そして少しホンキートンクなイマジンが世界の全てになっていた。世界は少しだけ柔らかくなった。今夜の彼の3杯目はレイン・ドロップになった。冷たい霧雨が世界を静かに包み込んでいた夜だった。


 さて、世界は嘘で動いている。真実は時に残酷でさえもある。彼に妻などはいなかったという架空の真実が私の脳裏を離れない。でも彼には妄想が真実であった。誰も傷つけない罪のない妄想。一瞬で出来上がったあの日の妄想を書き留めるこの行為をどうかお許し願いたい。たくさんの夢想家が世界中で眠っている。

 

 

 

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